ワイオ時事評論 No.60 休まれる知識

私がワイオを学び出した頃、小笠原師に理論を学ぶにあたり、参考になる本はありますか?と尋ねたら、一冊もないと言われた。ワイオ理論は、それまで師が学んだ知識の上に出来上がった理論ではあるが、出来上がってみれば、今までの理論、理屈、知識をほとんど否定することになるので、今までの知識を積み上げた結果によって出来たものではないことになる。

 

各分野の常識を造った原因の所からの情報で生まれた理論ではないという事は、とにもかくにも、今までの常識を造った原因の世界より、さらに奥の見えない世界、一般的には神の世界から引っ張り出した情報を、様々な方法で実験し、確認して理論としてまとめたものである。つまり、神事、神業をやって出来上がった理論なのだ。神事と言うと神道家となるが、得た情報をしっかりと科学的に確認したところが、神道家の神事と違うのである。

 

上志満のワイオセミナーは、小笠原師のワイオセミナーではない。セミナーに神事を持ちこんでいるとずいぶん批判されてきた。私も神事、神業で得た情報を、ワイオ理論の物差しで判断し、理論の証明になる情報を伝えてきたのであるが、絶対的、教祖的な小笠原師からの情報でないと、認めることはできないのである。それは仕方のないことではあるが、師が、「私の言うことは信用しないで下さい」と常にセミナーの初めに言っておられたことを、どのように受け止めていたのか?自分で確認しなさいと言っているのだ。それが自立への道なのだから。やれやれであるが、それはさておき、全てと言っていい人が、これからほとんど役に立たなくなる情報・知識を、学校で、あるいは様々な書物で、インターネットで、日々、脳に詰め込んでいる。

 

祖の時代は脳が大きく働いた時代であるから、入学に、就職に、資格取得試験に、必死に知識を詰め込んだのである。仕方のない事であるが、今となっては役に立たない知識で脳が一杯になっているので、今ではまだ非常識なワイオの知識は、なかなか脳の中に入っていかない。まして、日常生活の中ですぐ必要とされる内容とは思えないので、何となく聞いているだけであろう。せっかく学んだワイオの知識は、ほとんど生かされていないのである。

 

毎日の生活の中で必要なくなったものは、捨てるか、他の人にくれるかするが、見て邪魔にならない知識は、片付けようとしない。しかし、見えないが、原因をつくっている、脳に詰まっている知識の方々にも、心がある。知識としての自分を生かせと、それぞれの知識が信号を送っているので、知識を整理して、うまく使うことができないのである。

 

さらに、今までの知識の方々の多くは、もう自分たちが役に立つ時代は終わったと気がついている。自分たちが脳に詰まっていては、せっかくの光輝くワイオ理論の知識が脳に入ってこれないと、役に立たなくなった自分たちは、もう休みたいと思っているのである。

 

しかし、あいかわらず顕在意識が休みたい知識にしがみついている。しかも、記録、記憶となっているので休めない。古い知識を使って何回か痛い思いを体験しなければ、手離すことができないのである。したがって、できればお札に乗って休みたいと思っているのである。休みたいと思っている役割を終えた知識の方々は、もうこれからはワイオ理論しか生かせる知識はないと知っているのである。やはり、“知らぬは人間ばかりなり”なのだ。