ワイオ時事評論No.66 真実を伝えることのむずかしさ

ワイオ理論、この奇想天外、一見、荒唐無稽な、一般的に言えば非常識な話を理解してくれという方が無理であろう。宗教ではない科学理論であると言っても、誰にでも理解できるような明確な結果が出ている訳でもない。自然界の、世の中の現状を理論に当てはめて解説することしかできないのが現実である。お札でこんな結果が出たと言っても、その因果関係を今の科学理論で容易に説明ができる訳でもない。

 

しかも、セミナーのテキストには、しっかりと年月日を入れて、変化の予定が示されている。この年月日に明らかな変化が起きれば、人々にもなるほどと耳を傾けさせ、理論に関心を持って頂くことができるが、この年月日の表示は諸刃の剣であって、時が来ても、過ぎても、何の変化も起こらなかったら、大きくマイナスに働く。現実に明らかに誰もが確認できる変化は、時が四年も過ぎていても、何の変化も起こっていないのである。確かに起こりそうな気配がある程度である。

 

したがって、小笠原師は、常にセミナーにおいて、この話を信じるなと前置きしてからセミナーを進めていた。話を聞いた個人個人が、自分で確認してくれ、もっと言えば、この理論のもっている、とてつもない可能性に参加してくれとの意味である。可能性とは、世界広しといえども、他のどこにもない地上天国創造への可能性である。それは、理論を聞いて、知って、自分でできる事を実施して確認した時初めて、理論が分かった、理解できたと、信じて用いることができる。信用できると、確認できなければ他者に話すことはできないか?それは違う。自分が感じた可能性の感動を、多くの人々と共有して、この可能性を一日も早く現実のものにする為に、皆で一緒に出来ることをやっていこうと、おそらく理論を知った何人かの方々は、そのように思ったに違いない。

 

しかし、残念ながら、せっかくの可能性に対しての行動が、祖から皇のエネルギーの変化が四年も遅れていることによって、行動が継続できなくなる。この遅れが納得できないでいた小笠原師は、その原因究明のため、自らあの世へ旅立たれた。そして、必要な情報をこの世へ送っているのである。このまま理論を証明する変化が起こらなければ、単なる宗教的、オカルト話となってしまう。ワイオ理論においての現状は、そのオカルト的現状である。

 

師は宗教と思わせることを避けるために、神を否定し、神の話はほとんどしなかった。しかし、本来の神の文字の意味からすれば、侖さま、ムのお方、ワインさま、ワソハさま方々は疑う事なき神としての存在である。つまり、本来オカルト話なのだ。ただ、今までのオカルト話と違うのは、絶対に誰もが納得する、やがて科学的に証明される結果を必ず出す、自然も世の中も自分も必ず変化する、幸匐になれると、理論のもっている総合的な魅力を信じているから、少ない人数ではあるが、縁を切らずにいるのである。そして理論造りのために、様々な情報を提供して頂く原因の世界の担当の方々との日々の交流によって、なぜここまで変化が遅れてしまったのかの原因は明確になっている。

 

ワイオ理論の証明の起死回生の出来事は、明確な予告に基づく大天変地異の発生である。それは発生日時よりも、破壊の内容である。内容の概要はすでに公にも提供してある、日時においては、もう何度も妨害によって決行出来ずに、その都度、悔しい、腹立たしい思いを味わった。一番公表したくないのは自身である。それでも、日時を公表する理由は、一、この大変な事態が起こると知って人間としてやるべき事はないのか、自分だけ対処してそれでよいのかと、侖さまから言われた。一、公表することにより、隠れている闇や祖の存在が明らかになる。その方々の思い、考えを知ることができ、そしてお札で送ってやることができる。一、この時期、本当に理論が出された目的、その心髄を理解できる者を結集させたい。

 

誠実であるがゆえに、公表した日時に事が起こらないと、大きなマイナスになると、強く公表を否定する方もおられるが、まさにその通りで、何度も外れたことによって、多くの方々がセミナーに参加しなくなった。当然のことである。さすがに原因の世界の方々も、二年ほど前から、もう公表しなくてよいと言ってくれている。公表して、もうこれ以上、妨害され延ばすことはできないとのことである。したがって、今は漠然とした日時しか伝えていない。

 

それにしても、地上天国創造に貴重な存在として、共にここまでやってきてくれた方々に、万一の事があってはならないと、それが一番心配である。それぞれの個人を守る他多さん方々は、まだ充分働けない状態であるし、妨害者が、怨念怨靈があの世へ道ずれにしようと思っていることが心配である。いずれにしても、全てのことにおいて、全部がマイナスという事はない。その都度、隠れていた存在が正体を現し、その全てが理論の肉づけとなり、理論の証明となっている。常にマイナスとプラスは、ほぼ等しく存在しているのである。