ワイオ時事評論No.108 靖国神社参拝

安倍総理がようやく靖国神社に参拝された。早速、中国、韓国のお決まりの批判が始まった。そして、相変わらず日本のマスコミも、負けじとバカげた批判を繰り返す。どの批判をとっても論評に値しない内容である。アメリカの失望発言は、やはり、東京裁判のインチキ性を表に出されたくない思いを素直に出した言葉であろう。なんとなく期待されて登場したケネディー大使も、やはり単なるアメリカ政府の代弁者でしかなかった。日本の批判者も相変わらず偽善者の言葉であった。

 

本来、靖国参拝は、他の国がどう思うかを気にして論ずべき問題ではなく、日本の政治の最高責任者の参拝と、靖国に祭られている御靈の方々との関係で論じるべきである。祭られている御靈の方々が、安倍総理の参拝をどう思っているかである。批判者は特にA級戦犯と呼ばれている方々の思いが、いかなるものかなど、全く考えたことはないであろう。日清・日露はもとより、大東亜戦争は、世界のいかなる国からも批判されるべき戦争ではなく、日本民族が世界に誇る聖なる戦いなのだ。白人国家の侵略、略奪、植民地政策にあえぐ国々を解放した、世界で初めての戦争であり、日本は敗れたとはいえ、戦争目的は立派に果たしているのである。

 

原因の世界から見れば、勝利するチャンスはあったとはいえ、敗けるべく予定されていた戦である。大事なことは、当時の世界全体の時代背景の中で、日本民族として、何をどのように考え、どのように行動しなければならなかったかである。武士道精心を神から与えられた民族として、負けると分かっていながら、それでも正義のために戦わなければならなかった。日本民族に与えられた、避けては通れぬ試練であった。白人の植民地政策に苦しむ国々の独立を、終戦後もその地にとどまって戦い、勝ち取った日本兵の武士道精心こそ、この戦争の本質が現れている。この時代も現代も変わらぬ正義を貫いている民族が他にあっただろうか?

 

この聖なる戦いの指導者たちを、犯罪者として裁いたアメリカを中心とした国々に、人道だとか正義だとか、偉そうに口にすることなど決してできないのであるが、そのような者たち、国ほど、人道、正義を声高に言っている。もともと恥という心の働きはないのであろう。この歴史の事実を全く知ろうとしない、日本の多くの知識人と自身が思っている方々を見ると、知識人のレベルがいかに低いかに驚くばかりである。靖国参拝を批判する多くの偽善者に対し、靖国に祭られている御靈の方々、御魂の方々は、どのように思っているかは容易に想像ができるであろう。自虐史観で教育させられた子供たちの将来、日本国の将来を考えた時、いたたまれぬ無念の思い、抑えられない激しい怒りは、それらの偽善的知識人に向けられないわけがない。まもなく起こる天変地異と共にその怒りは爆発すると思う。

 

安倍総理の参拝は、これまでの総理の参拝とは、その意義が大きく異なるのである。日本民族が、このような不当な仕打ちを受けてきたのも、新しい時代創造のリーダーに成長するための、やはり避けて通れぬ、予定されていた試練である。そのことがまもなく全世界に起こる大天変地異を始まりとして、次第に全世界が理解していくことになる。

 

総理の靖国参拝の目的は、不戦の誓いなどではなく、これからも正義の戦いを続けていくこと、必ず、さらに世界に誇れる日本国を創造して、戦犯として不当に断罪された方々の汚名を晴らし、無念の思いを晴らしていくことの誓いでなければならない。批判する国々に参拝の真意を、誠意をもって理解して頂くなど全く必要ないし、やるべきではない。まぁ、武士道精心の仁(思いやり)を考えれば、批判する愚かな国に対して、なぜ自分で自分の首をしめるのかと注意してやるべきか?ついでに言えば、あの聖戦を共に戦った朝鮮民族は、それまで民族として誇れる歴史がなかったが、唯一この戦いへの参加は誇れる歴史となるのに、なぜ自分からその誇りを否定するのか?