ワイオ時事評論No.115 罪と罰

有名なドストエフスキーの小説の題名であるが、祖の時代に、何が罪で、その罪に対して、いかなる罰が与えられるのが必要なのかということも、皇のルールにおいて変化するのである。法を犯すと罪となるから、祖の法・ルールから、皇の法・ルールに変われば、罪と罰の内容も変わるのは当然のことではある。罪を一言で言えば、他者に対するマイナス行動であろう。そして、何が罪となるマイナス行為かは、法治国家として定められている。

 

しかし、現実には、あれだけマイナス行為を行っているのに、なぜか、その行為を取り締まる法もなく、罰することなく、野放し状態の大きな問題があることに、世の多くの人々は気づいていないのではないかと思う。何が罪になるかは、その時代背景もあり、一概には言えないが、戦争さえも犯罪とは言えない時代が長く続いてきた。

 

世界全体でみれば、勝手な理屈で人の命を奪っても、裁かれない権力者もいれば、日本のように、国の未来を託す子供たちの精心的成長に、多大なマイナスを与える教育をしても、また、そのような情報をどれだけ発信しても、国家にとって、どれだけマイナスな言動を行っても、全く罪とならない。そのことが、少しも異常と思われない。このような異常が、祖の時代には数多くみられる。それは、日本だけではなく、他の多くの国にみられることではある。それも、祖の時代の法に守られる形で、罪にならないのであるから、法の網の目をくぐることも、見つからなければ罪にならないことも、財力で罪を逃れることも、いくらでもあることであった。

 

が、いよいよ、皇の法、ルールが動き出すと、そのようなことは一切、許されなくなる。もっと具体的に言えば、ウソの歴史情報で自虐史観を持たせる教育をすれば、決して許されることはない。他者の自立を妨げる偽善行為も決して許されない。本当に相手のことをよく知らずに、なまじな親切心を出せば、自分の首を絞めることになるので要注意である。病気の本当の原因を治療せずに薬漬け医療などの対症療法も、もちろん大きな罪となる。化学肥料を使ったり、農薬を使った作物を売ることも、当然、罪となる。軍事力で他者を威圧することも、もちろんできなくなっていく。かといって現段階で、それらを取り締まる法もなければ、国際司法裁判所がしっかり機能しているわけでもない。

 

つまり、皇の法・ルールを犯すことに対する罪は、人の手で裁くのではなく、神の見えざる手によって行われる。ワイオ理論で言えば、皇の法・ルールに基づいて、鬼さんが取締り、閻魔大王が裁き、罰は、除さん方々などの働きで行われる。つまり、人間にとっては、その罪に対する罰は、様々な不幸現象が起こってくるので、法・ルールを犯した者は、誰の目にも一目瞭然となる。したがって、司法関係者も、嫌な仕事から解放されることになる。ちなみに、皇の犯罪者には、少年法も情状酌量などもない。

 

せっかくワイオを学びながら、すでに皇の法を犯してしまっている方も少なからずいる。もっともこれは、ワイオ講師の責任でもあるから、恨まれても仕方がないことではある。