青森神業の道中に、中尊寺に行く必要ありの信号があった。神社仏閣参拝の趣味はないが、中尊寺は、小笠原師の過去世で、藤原清衡が建立した仏閣なので、興味はあった。権力者が民から税を搾り取らなければ、大きな建物はできないが、清衡の思いは、合戦で亡くなった全ての命を平等に供養するための建立とのこと。この思想は、日本の歴史の中で、時々、見ることができる。近代史では、南京没落の司令官、松井石根陸軍大将が、「興亜観音」を建立し、日中の戦死者を共に供養した。金色堂など、莫大な建設費がかかったと思うが、地上に平和な仏国土を建設するには、当時としては、仏の力にすがるしかなかったであろうと思う。中尊寺の弁財天道に光の柱を建て、清衡の子の基衡と対話できた。天変地異によって、ほとんどの神社仏閣は消滅するのであるが、清衡の純粋な思いを後世に伝えるために、中尊寺は残されていくとのことであり、重税でなく、多くの民人の浄財によって建立されたと話された。
宿泊は、近くの胆沢の薬師堂温泉になったが、胆沢地域はアテルイがヤマト軍と戦った地域で、戦いの時代は、今から1200年前で、坂上田村麻呂と戦ったとあるが、正確には、2000年前の戦いである。父である小笠原師(アクト)と共に戦ったアテルイが、信じていた正義が無残に打ち砕かれ、無念の思いを残して死んでいった地であった。温泉の近くに、アテルイに関する立派な資料館が建てられており、資料館の職員の方々の中に、ワイオの記録のある方もおられた。この地域にワイオが早く広がり、アテルイたちが守りたかった平和な生活が、再びよみがえる日を早く迎えたいと思う。
薬師堂温泉は、幸いなことに、皇の温泉としてエネルギーを変え、90%に高めることができた。皇の時代の治療の中心となる皇の温泉は、全国に出来るのであるが、過去世の縁もあって、計らずも、相応しい地にできた。これは神界のお手配であるが、次の和歌山における神業でも、徳川家の菩提寺のある高野山へ行って、徳川家の先祖供養の要請もあった。ミラクルピースといわれる徳川300年の平和な時代は、行政の仕組みによって成し遂げられたと言えよう。同時に、役人の仕事は、武士道精心を持った侍が行っていたので、現在のように、官僚が、自分たちのために、無駄に税金を使う天下りの場所などなく、世界に誇る江戸文化が花開いたのである。
ちなみに、中尊寺の全ての仏像のエネルギーは、平成21年で休まれている。同じく、経典、お題目も、読んでも、唱えても、もうそこにはエネルギーが働かないのである。