ワイオ時事評論No.165 人生観のズレ

この度の地球における于由の実験に参加する記録を持った魂の人間は、輪廻を繰り返す中で、様々な試練を乗り越えて靈格(人格)を磨き、魂のレベルを高めてきた。祖の時代は、物質文明創造の時代と言われているが、基礎造りの時代として、精心的進化の基礎造りも進められてきたことは、間違いないことである。精心的成長(霊的成長)とは、人間としての価値観が、神心、観音心に近づくことである。簡単に言えば、神心とは、迷える者を教え、導くことであり、観音心とは、憐れみ、慈しむ慈悲の心である。


ただし、神心も観音心も、祖の時代においては、何も知らない、解っていない子供に対する導き、慈悲であって、今までの宗教の教えは、子供を卒業しなければならない皇の時代には、もう必要ない。あれば害になるものである。そのことは、世界のどの宗教においても、はっきり言えることで、世界を騒がせているイスラム原理主義だけの問題ではない。したがって、世界の宗教は、天変地異と共に急速に消えていく。宗教の教えが消えても、神々や観音さま方々がいなくなるのではない。大人として自立できる人間と共に、原因の世界と結果の世界での役割を分担して、協力し合いながら、精心文明、地上天国創造を進めていくのである。さらに、実験であるがゆえに、既に他の星で皇の時代創造を経験した方々も、共に学ぶ意味もあり、地球に応援に来ておられる。

  

人生がとてもややこしくなるのは、試練を乗り越えて、高い人生観を持っている魂であっても、肉体を持っての地上での人生が、その都度、違ったテーマを学んで成長していくので、はっきりとした過去世の記憶を引き継いでの人生ではなく、今世の人生の様々な環境(自然、教育、世の中)の違いによって、魂の持っている価値観が表現されないことが多くある。そのような厳しい環境こそが、魂の進化に必要であるのだが、つまり、人生に対する魂の思考と、顕在意識の思考に、大きなずれが生じているのである。


例えて言えば、人生は、二頭立ての馬車の状態で走っているので、二頭の人生の目的、価値観がずれているのである。一頭は馬としても、一緒に走っているのは鹿なのである。したがって、人生は常に馬鹿な状態で走っており、一方は、高い価値観で走ろうとし、他方は、現実に合わせて走ろうとする。つまり馬が合わない状態で走らざるを得ない時代であった。さらにそこに、様々な違いを持った他人が一緒に人生を歩くとなると、なおさらである。


皇の時代は、しだいに馬鹿な状態が解消されていくのであるが、基本的に、顕在意識が馬鹿な状態を早く知って、自分の意識、思考を魂に合わせていかなければならない。そのためにも、お札の力はどうしても必要である。