祖の時代は子供の時代。子供を一人前の大人に教え育てる時代。子供の人類を大人の人類に育てるために、まず初めに神と呼ばれる親(教師)が旧約聖書、次に新約聖書、そして、コーランという教科書で教えた。アジアにおいては、聖人と呼ばれる孔子と釈迦が論語と仏典という教科書を使って教えてきた。こうして2500年の長い時間をかけての教育が終わろうとしている。
子供が成長して大人に近づくと、親としての教育ではなく、子供自身が自ら学びたいこと、好きなこと、興味のあることを、楽しく学ぼうとする意識になる。何を学びたいかはそれぞれであるが、生活のための収入がより多いという意識が働いて何を学ぶのかを選ぶのではない。魂が何度も輪廻を重ねて、肉体をもって学んだもの、ことが、記録として残っており、大人に近いということは、靈の持っている人生の価値観が、神、聖人に近いこと、靈体の持っている能力が、靈能として発揮できるということで、その価値観と靈能を発揮して人生を歩こうとする魂の思いが働いて、顕在意識が今、何を学びたいのかという事になる。
子供の段階での神、仏(宗教)の教えの矛盾に気づき、親(宗教、神仏)離れが全世界的に進んでいる。親離れできず、自立できずに親にしがみついている者もたくさんいるが、賢い野生の動物は、子供の成長を確認すると、はっきりと子供の自立を促す行動を行う。人間はそれがなかなかできない動物なので、親である神が、自立の時をはっきりと理解させるために、天変地異の力を使うのである。そして、天変地異の後は、教育から学習に変わっていくのである。
学習とは?自分が本当に学びたいこと、知りたいことを、自ら求めて行動することで、習の文字は、学んだことによって自分に羽が付き、子供の時より自由に、行動範囲も広く飛び回ることが出来るようになるという意味である。したがって、皇の時代の教育は、小学生の段階で、基本の読む、書く、算数を身につけることで終わりである。その後は、自分の魂の記録に基づいて、好きでたのしく学べることのみを学んでいく学習になる。その学習には、常に実習が伴って、脳だけでなく、身体を使っての楽しさも喜びも学ぶ形になる。したがって、政治家、教育担当者は、その学習の体制づくりが役目となる。
子供が個々に、何が好きでたのしいことなのかを、できるだけ早く、小学生の段階から見つけてやらなければならない。子供の生涯歩く道への方向付けをしてやるのが、親として大事な役目なのである。子供が生涯歩く道が見つかっても、様々な妨げとなるもの、分かりやすく言えば、ゴミを抱えている。そのゴミとは、過去世においてのゴミ、今世においてのゴミがあるが、ゴミとはマイナス(不幸にする)の記録、能力発揮を妨げる思凝霊の方々などである。このゴミを取り除くことは、ワイオの力で容易にできる。要するに、親として、自分の子供は生まれつき能力がないなどとは決して思わないこと。すべての子供は、幸福になる能力を必ず持って生まれてきているのである。
最後に、本当の自分である魂との対話をして、子供が魂の存在を知って、本当の自分の魂の思いを自分の思いとして、日々の生活に活かすことが出来れば、親としての子育ての役目は終わりである。