思いが狂えば…ということについて考察してみたい

上志満講師がよくセミナーの中で、

 

精心→肉体→対人→恵戝 と、ホワイトボードに書いて説明をされることがあった。

 

思う→動く→対人関係→最終結果

 

何かを思う→思いにもとづいて動く→動いたことによって縁ができる→そして最終結果がでる

 

 

思う・・・何を思うのか。誰の思いなのか。どんな思いなのか。

 

動く…思いにもとづいて、どう動くのか。

 

対人関係・・・動いた結果、どのような縁ができるのか。(縁は人間同士の縁のみならずだろう)

 

最終結果・・・その結果、恵戝領域なので、お金という形での収入もあるだろうし、他の形でもあるだろうと思う。

 

 

この流れを見るとわかるように、一番初めの「思う」の段階で、仮に、御魂さんの思いとずれた思い、皇のルールに沿わない思いを持ち、そのまま次の「動く」の段階に進めば、その後の流れも、ずれたまま進む可能性が高く、結果もずれたものが出てくる可能性が高い。

 

「思う」の段階で、この思いは、はたして御魂さんの思いと一致しているのか?完全に一致していないまでも、御魂さんも賛成してくれているのか?皇のルールに沿ったものなのか?など、自分の思いを客観的に観察してみたり、感じてみたり(御魂さんと交信が取れる方は、その方法で確認をしてみたり)という時間をつくるとよいと思う。

 

そうはいっても、顕在の(もしくは過去世の思凝霊さんなどの)思いが強く働く場合には、正確に御魂さんがどんな思いでいるのかを感じ取るのは難しいかもしれないし、前回、お伝えしたように、そうしたくないと思う方々もおられるので、一筋縄ではいかないかもしれない。

 

自分が感じる思いは、常に御魂さんの思いと一致していると無条件に思い込んで動くよりも、自分の思いを精査する時間を取った方がよいように思う。

 

慾さんの影響を受けていないか、損得で判断しようとしていないか、そこも大切なポイントだろうと思う。(慾さんはけして悪者ではない。慾さんの働きがあったからこそ、苦の多い祖の時代を何とか踏ん張って、頑張って生きてこれたと思う。祖の時代に功労者だ。)

 

 

仮に、思いがずれたまま動いたとしても、その段階で「少しずれていますよ」のヒントはやってくるであろうと思う。この段階では、小さなヒント、小さな信号かもしれない。そこで気づいて修正をかけていければ、まだ小さなずれなので、修正も小さくて済むだろう。

度重なるヒントや信号になかなか気づかず、そのまま進み続けていった時には、ずれはやはり大きなものになっているであろうから、修正にも大きなエネルギーを要するかもしれない。

また、何かが起きた時に、○○が悪いと、誰かや何かのせいにしてしまいたくなる気持ちもわかるが、それをしてしまうと、ずれがさらに進んでしまうだろうと思う。

 

この、ずれを教えてくれるための出来事は、本当はとてもありがたいのだけれど、すぐにはそうと受け止めきれない場合もあるだろう。私もその気持ちは分かる。だけれども、気づきが起きて、あぁ、本当に必要なことが起きていたのだと体感できた時、腑に落ちた時には、厳しさの中にどれだけの愛があったのかを思い知らされる。信号やヒントが来ているうちは、何とか本当の幸せの方へと一緒に進んでいきたいと思って動いてくれている御魂さんや他多さまがいて下さるということだ。ずれがどうしようもなく大きくなり、御魂さんがその肉体と共に生きることをあきらめた時には、ずれを教えようとする信号もヒントも、逆に何も起こらないのではないかと思う。

 

表面的にだけきれいな、表面的にだけやさしい言葉はありふれていると思うが、愛があるからこその厳しいお言葉を言って下さるのが、自分に関わる育ての闇さま、育ての闇のエネルギーさまである。協力神さまや他多さまよりも厳しくはっきりと言われることが多い。そのような役割をあえて担って下さっているのだ。本当は感謝しかないのである。